関南アルプス




神明神社・祠


神明神社(下迫間)
 八方坂峠を北に下ると下迫間の神明神社に着きます。 これが、迫間地区からの登山道の一つです。

 延宝8年(1680年)9月に、伊勢から天照大神の分神を勧請して下迫間区に神明神社が建立され、現在の迫間不動尊の「奥の院」が神仏習合時代に神明神社の奥の院とされていました。 今では、分離され神明神社となっておりますが、迫間不動尊と深いつながりがある神社です。 神明神社からの登山道が当時の神明神社と奥の院をつなぐ参道でした。

 

多賀坂林道改修記念碑の祠
 多賀坂林道改修記念碑の横に祠があります。 右後ろに見えるのが、「石仏・石碑」で説明しました柱状節理の石が立てられています。

 祠としては割と新しいと感じました。 間違っているかもわかりませんが多賀坂林道改修工事際のの安全を祈願して建てられたのかもしれません。

金毘羅神社
 室町時代の天文8年(1539年)には正義画像明叔讃に「船之往還市中之聚散」とあって、既に舟運が盛んであったことを示しています。

 更に江戸時代には兼山湊(現在の可児市兼山)を中心に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められました。 その一つが、ここの金毘羅神社であったと思われます。 金毘羅神社は木曽川に向かって建てられています。

 神仏習合時代には金毘羅大権現と言われ、本地仏は不動明王とされ、迫間不動尊と深い関わりがあります。 明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の際に分離され、金毘羅神社となりました。 

 名前として金毘羅神社、金比羅神社、金刀比羅神社の3つあり、香川県琴平町の金刀比羅宮を総本宮として全国に色々な名前に変わった神社がありますが、この神社の石碑は「毘」の文字の「田」が崩されて口にメとなっており、「毘」で間違いなく、金毘羅神社です。 色々な文字に変わったのは、元々「金毘羅大権現」として統一されていたものが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の際に、各地で夫々の解釈で文字が当てられたと考えられます。
 完全に神仏が分離された神社は金比羅神社、金刀比羅神社となり、分離されたものの管理・運営面も含め仏教色から完全に抜けきらない所が「金毘羅大権現」を密かに崇拝し、金毘羅神社となったとも考えられます。